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『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶

こんにちは。あごきれウサギのみもらです。

今年の紅葉が見られるのも残りあと少しですね。

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さて、読書の秋。

インドで生まれた釈迦の仏教哲学が中国に渡り中国風のアレンジを経て日本に伝わり普及するまでに登場した様々な哲人たちやその思想が漫画を読むような感覚(実際には文章ばかりですが)で読めて、とても分かりやすく読みやすいです。

 

高校の時、倫理の授業で学んだブラフマン(世界)、アートマン(真我)、梵我一如、無為自然などという難しい考え方が分かりやすく解説されています。また、釈迦、龍樹、中国の歴代皇帝、孔子孟子老子荀子荘子などの思想家達が個性豊かに登場します。神のような存在だと思っていた偉人たちが、この本を通して親しみ深く感じられ、あらためて敬意を感じました。高校生の時にこの本を読んでいれば、もっと授業が楽しく受けられたのではと思いながら読みました。

 

思想は東へ東へ

思想は東へ東へと伝播し、最果ての東である日本に辿り着きました。そして、さらに日本風にアレンジが加えられ、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるというような、より日常に浸透しやすい形に変わりました。

 

根源の思想 

思想は、形は変われども根本的には、紀元前700年頃にヤージュナヴァルキャが悟った、「ブラフマン(世界)はアートマン(真我)にほかならない」、「〜に非ず、〜に非ず」という考えに通じているということが非常に興味深かったです。

 

ブラフマン(世界)はアートマン(真我)にほかならない」

とは、つまり、自分自身が世界であるということ。物(人)とは境界を作って名前をつけたものであって実際にはそのようなものは存在しない。境界を取ってしまえば世界と物とは一つになる。つまり自分と世界も一つである。

 

「〜に非ず、〜に非ず」

とは、つまり、自分自身を認識するということはできない。認識するものと認識されるものが同一であることはない。そのため、自分自身は〜ではない。という表現でしか現すことはできない、ということである。

もっともなことであるが、自分はりんごではない。自分はへびではない。ということはできるが自分は何であるかということは誰も言えない訳である。

 

東洋哲学は、哲人がある時に悟ったことを弟子に伝える形で広まって行きました。その思想を本当の意味で知るためには、本を読んでわかるということではなく、本来は自分自身も悟る体験をする必要があります。ただ、うすらぼんやりですが、日常の中でも世界と自分が繋がっているというような体験をすることはあるように思います。それは悟ったというには仰々しいレベルだとは思いますが。。

 

これだけの天才的な思想家が登場してもなお世界は混沌としていて問題や矛盾をたくさん抱えています。思想は迫害や制圧を受け変化しながら東へ東へと伝播し、日本に伝わりました。日本は東洋の思想だけではなく、様々な思想が集まった国です。

 

最果ての東、日本で哲学を考える

ブラフマンアートマンである(世界と自分は一つである)という思想はもしかすると日本人の根幹にはとても根付いているのではないかと感じます。その理由の一つとして、日本国憲法があります。

 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

日本国憲法前文より

 

この前文が実現した世の中がもしかすると東洋の哲人たちが伝えようとした本来の国のある形なのではないか、と感じました。この本は高校の歴史や倫理の授業で学んだことを再認識する上で非常に良書でした。勉強中の高校生はもちろん、しばらく歴史の勉強から離れた大人にもオススメです。